
名前が呼び寄せる偶然
2000年ごろ、日本で「ネグローニ」というカクテルを知っている人はごくわずかだった。
それは洒落たバーで常連が口にするような、知る人ぞ知る存在だったのである。
ネグローニという名の起源は、1920年代のフィレンツェに遡る。ある日、カミロ・コンテ・ネグローニ伯爵は、いつものアメリカーノに物足りなさを覚え、ソーダの代わりにジンを注ぐようバーテンダーに頼んだ。強さと深みを備えたその一杯は、やがて伯爵の名を冠するカクテルとなり、世界中に広まっていった。
その名をブランドに掲げた創業者もまた、カクテルの持つ気品と力強さに魅了されていた。
透明なグラスの中でジンとヴェルモット、カンパリが混じり合い、深い赤を湛える一杯。
それはクラシックでありながら革新的な感覚を孕み、ネグローニという靴の思想と重なるものがあった。
やがてネグローニは日本だけでなく世界のカクテルリストに欠かせない存在となるが、創業者がその未来を予見していたのかどうかは分からない。
真紅のタルガ
ベルギーに暮らすジェラードとリリー・ローズ夫妻は、イタリアを愛している。
冬はドロミテでスキーを楽しみ、夏はトスカーナの陽光の下、オールドタイマー・ポルシェのコレクションで異国のラリーに参加する。夫妻はこれまで、ヨーロッパ各地からモロッコ、さらには南インドからスリランカまで、愛車とともに旅をしてきた。旅の傍らにあるのは、いつもお気に入りのカクテル、ネグローニだった。ふたりが初めてその一杯を口にしたのは、コモ湖畔のバーだったという。以来、このカクテルは彼らにとって特別な存在となった。
長距離ラリーのために彼らが選んだのは、1985年式の911タルガ。安全性とオープンエアの開放感を兼ね備えた一台である。搭載されていた3.2リッターを基礎に、夫妻はそれを徹底的にリビルドし、1973年Sルックへと“バックデート”した。性能と信頼性、そして美学を一体化させる試みだった。色にはポルシェの「ポリアンサレッド(Ref.5602)」を選んだが、夫妻はそれを“ネグローニ”と呼ぶことにした。
偶然にもベルギーで「NEGRONI」のプライベートナンバーがまだ空いており、彼は迷わず生涯登録した。さらにスピードメーターやジャケットにも“ネグローニ”の名を刻み、クルマとライフスタイルをひとつの物語に重ね合わせていった。
ラリーの途中で
ジェラード夫妻はこれまで、世界各地のクラシックカーラリーに参加してきた。
そのひとつが今年5月に行われた「Destination Rally Japan Classic」である。神戸を出発し、北海道のニセコを目指す日本縦断 24日間の旅は、走りながら文化と風景を体で感じる壮大な道程だ。今回はラリー仕様に架装されたライトブルーの911で参加していた。
このDestination Rally はFIVA(国際クラシックカー連盟)やベルギー・クラシックカー連盟に属している。経験豊かなメカニックや医療スタッフが帯同し、ルートの下見や地元との調整も欠かさない。そうした備えがあるからこそ、参加者は初めて訪れた異国の道でも安心して走りに没頭できるのだろう。
一行は日本縦断の道程を進むなかで、京都にも立ち寄った。嵐山高雄パークウェイでは「高雄サンデーミーティング」が開かれていた。京都クラシックカー界の顔である清水倫正氏が主催し、160回を超える歴史を持つ集いである。会場にはトヨタ・セリカGTVやホンダS800といった往年の国産車に加え、欧州のコンバーチブルも並び、山あいの緑に鮮やかな彩りを添えていた。
全く別のクラシックカーラリーに参加する海外から来た一行が日本のオーナーたちと束の間交流し、日本の愛好家がデスティネーションラリーのクラシックカーを興味深そうに眺める──会場には穏やかな時間が流れていた。
そこに並ぶ一角に、ネグローニのサインボードを掲げた私たちの小さなブースもあった。隣接するカフェテントにコーヒーブレイクに立ち寄った夫妻は、ふとそのサインを目に留めた。
嵐山での邂逅
ジェラード氏はサインボードを目にした瞬間、驚きの声をあげた。
「このサインを譲ってくれないか」
最初は何のことか分からなかった。だが彼の熱を帯びた語りを聞くうちに、ベルギーのガレージに眠る“NEGRONI”と、この地に掲げられていた小さなボードが、一本の線で結ばれていることを理解した。偶然に見えて、これは名前が呼び寄せた必然だったのかもしれない。
私たちはその物語に心を動かされ、サインボードを彼に手渡した。夫妻は深紅のイデアコルサと共に911のブートに収め、バッテリーの細かな整備を終えると、次の目的地へと走り出していった。いまもそのサインボードは彼のガレージに保管されているという。所謂 “小さなイベントサイン” にすぎないはずのものが、国境を越えて結ばれた縁の象徴となった。
ネグローニという名前がなぜブランド名になったのか。
私たちはその物語をブランド創始者からつぶさに聞かされたわけではない。並々ならぬ強い思いがあったのかもしれないし、カクテルに酔ったときに響きが気に入って、なんとなく手帳に書き込んだだけかもしれない。
そんな「ふわりと置かれた言葉」が、ときに思いがけない縁を呼び寄せる。誰かが気に入ってくれる。でも、それはそれでいいではないか。
いずれまたベルギーを訪れたとき、彼の911を前にグラスを傾ける瞬間があるかもしれない。
それもまた、名前が紡ぐ物語の自然な続きにすぎない。
Photographs: Gerard Paulussen | Shuhei Miyabe (NEGRONI)
Allan Francis via Unsplash
Text: NEGRONI
Special Thanks
Edited Translation: James Orange

