D-Typeの運命  | GT Colour Lab™️ #4

D-Typeの運命 | GT Colour Lab™️ #4

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ル・マン 1955 に何があったか


K: そうそう。フェラーリもそうですが、僕の中ではブリックス・カニンガムといえばジャガーD-Type、そして「リスタージャガー」を使っていた印象が強いですね。

S: リスタージャガー?聞き慣れない名前です。

K: 1957年ごろ、レーシングから撤退したジャガーに代わり、リスターという会社がD-Typeのエンジンやギアボックスなどのコンポーネンツを利用した車両の製造を行っていた時期がありました。

S: ジャガーって、ワークスチームとしてレースから遠ざかっていた時期があったんですね。



ル・マン式スタートで車両に駆け寄る瞬間。この頃はまだ
本コースとピットを隔てるピットウォールすら無い時代だった。
(1955年) ©️Alamy


K: ___あぁ、その話をするには1955年のル・マン24時間を避けて通ることはできませんね。この年は、フランスのサルト・サーキットで国際レース史に残る悲劇的な事故がありました。レース開始2時間半が経過した頃、イギリス人レーサーのマイク・ホーソーンが乗るJaguar D-Typeがピットへ入ろうとして減速した際に、直後を走行していたオースティン・ヒーレーがそれに追突するのを避けるために急激な進路変更、更にその直後に迫っていた、チーム ダイムラー・ベンツのメルセデス・ベンツ300SLRがそれに追突し、宙に浮き上がりました。空中で制御を失ったメルセデスが観客が詰めかけるグランドスタンドに侵入し、多くの観客や関係者が亡くなる大惨事になったのです。


S: その話は少しだけ聞いたことがあります。本当に凄惨な状況だったとか…。

K: 事故の原因や真相は、様々なチームや国、観客、専門家などの異なる意見が入り混じっているため、一概に結論を出すことはできませんが、事実そのレースはそのまま続行されました。大会側は事故のあった時間帯と周辺の状況を鑑みて、レースを続けざるを得なかったと伝わっています。

S: え、その状況でも中止にならずにレースが続いてたんですか!?



ジャガーD-Type No.6/ マイク・ホーソーンに迫る、
300SLR No.19/ スターリング・モス(1955年)  ©️Alamy

 
K: 実はチーム ダイムラー・ベンツからは名選手であるスターリング・モスとファン・マヌエル・ファンジオも出場していて、事故の後も1位を守ってレースを続けていました。しかし、状況を知ったドイツ本社からの中止命令を受けて、チームはレースを停止。134周目にリタイアしています。ダイムラー・ベンツは事故の一因となったであろうジャガー・カーズに対してもリタイアを勧告しましたが、ジャガーはその要請を無視してレースを続けました。結果的に事故に関わっているマイク・ホーソーンのジャガーD-Typeが1位でチェッカーを受けました。

 
S: ジャガーとしても引くに引けない状況だったんでしょうか。1位とは言え、なんとも後味が悪い結果ですね。

K: 当時はまだ安全性というものの考え方が今とは全く違いました。レースとは元来危険なスポーツであり、観客もその危険性を知った上で観覧するものと捉えられていました。サーキットの設備も安全性を考えられて設計したものではありません。しかし、この事故を受けてフランス、スペイン、スイス、西ドイツなど欧州主要の国々で、一時的にモータースポーツが禁止となりました。レースの安全性、観客の安全性を見直すべきだという世論が欧州全体に吹き荒れたのです。その条項は、各サーキットの安全性が確保されるまでのおよそ1年ほどの短い間でほとんどが解除となりましたが、スイスでは未だに大部分のモータースポーツが禁止されているのは、まさにこの理由です。

S: この年から大きな意識改革が始まったんですね。

K: そして、この1955年を境にダイムラー・ベンツはモータースポーツからの完全撤退を決断します。それほどこのル・マンの事故の影響はあまりにも大きかった。ここから30年間ベンツはレースに出ていません。そして、レースを無理矢理続行したジャガー・カーズに対しても、世論はとても強烈に反応しました。この1戦以降、ジャガーにはダーティなイメージが付いてしまった。この数年レーシングで素晴らしい結果を残していた名車D-Typeの人気も芳しくなくなり、ジャガーもベンツと同じく翌年に国際レースから撤退することとなります。   

S: 勝ったとは言え、55年のル・マンの代償はあまりに大きかったのか。

K: レースからの撤退を受けて、人気のレーシングカーだったD-Typeの生産が終了したため、ジャガーのブラウンズレーン・ファクトリーには、車両の在庫が余ってしまいました。そこで、ジャガー・カーズはロードカーバージョンとして、D-Typeのシャシーを利用して公道向けにモディファイしたモデルの製造に着手します。それが、ジャガーXKSSです。ちなみにこの車両は主に北米マーケットに向けて開発されていました。事実、俳優のスティーブ・マックイーンもこのXKSSのオーナーの1人として名を連ねていますね。


ジャガーXKSSと佇むスティーブ・マックイーンと妻 ネリー。
©️Pictorial Press Ltd | Alamy 


S: D-Typeと比べるとショートノーズで軽やかなデザインですね。ボンネットに飾られたロゴデザインも美しい。ボディの曲線的なシルエットがとても魅力的に感じます。
 
 
K: しかし、1957年の2月。ジャガー・カーズに再び悲劇が襲います。コヴェントリーのブラウンズレーンファクトリーで夜間に火災が発生。工場の建屋、そして複数の車両が灰燼に帰すことになりました。


©️Alamy

 

S: うわ、これは酷い火災...。ジャガーMkVIIIがボロボロの状態ですね。

K: 不幸中の幸いというか、この火災では怪我人はいなかった様ですが、このブラウンズレーンファクトリーの1棟が全焼。鎮火後にスタッフがボルトやワッシャー、スペアパーツなど辛うじて使えそうなパーツをかき集め、早い復旧を試みましたが、この火災によって200台にも及ぶ車両が消失。そして保管されていたD-Type全台数と、製造中だったXKSSも25台のうち9台が消失しています。

S: なんだか言葉も出ないですね。何か自動車にまで曰くがついてしまったような。

K: その火災の後、レースの世界から完全に撤退したジャガーでしたが、Dタイプを始めとするレーシングカーのコンポーネントやエンジン、パーツの残骸などを、信頼できるコーチビルダーやレーシングカーコンストラクターに開示することにしました。ジャガーのエンジンやギアボックスを外部提供することによって、そこから、D-Typeにビルダーの個性が伴った、いわゆる「亜種」の様なジャガーがレースの世界に参入します。




コーチビルダーの変革期

パリ、石畳のサドル・コーチビルダー (1762年)
by Bernard after Lucotte 
©️Wellcome Images


S: なるほど、少しづつ潮目が変わり始めました感じがしますね。ちなみに、「コーチビルダー」ってどういう意味ですか?

K: コーチビルダーという呼称は、時代とともに大きく変わっていったので、一概に特定の職業を指すことはできませんが、主には車体を架装する会社のことです。「Coach」というのは元々は馬車の客車部分を示していて、「Builder」つまりコーチビルダーとは「馬車の客室を作る人、またはその様な技術を持った会社」を意味する言葉ですね。自動車の製造が本格的に始まった1900年初頭、コーチビルダーの仕事は馬車の架装から、自動車の架装へと役割が変化していきました。



バークシャーのコーチビルダー W.Vincent社の広告
チャールズ G. ハーパーによる1920年代の本
「ミッドランド郡のモーター」より



S: なるほど、文明の成長によって馬車の技術は自動車の技術に転用されて行ったんですね。

K: そうです。かつて貴族向け馬車の架装は非常に手の込んだものが多かった。お金持ちのオーナーは権力誇示の一環もあって、豪華な車体を見せびらかすために、特殊な加工や美的装飾をこぞって競争しました。この架装を好む文化はもちろん自動車にも脈々と繋がっていて、いわば速さを競う文化は競馬からモータースポーツへ。見た目の美を競う文化はコンクール・デレガンスへと継承されました。ちなみにイタリアのコモ湖で行われている、コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステが、欧州に現存するコンクール・デレガンスの中では最古のものと言われていて、1929年に始まったと言われています。


近年のコンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ。
イタリア・チェルノッビオのコモ湖畔で行われる
由緒あるコンクール。
©️REDA&CO srl | Alamy

 

S: 人々の競争を求める心と飽くなき承認欲求の周りにビジネスが生まれる図式は、いつの世もあまり変わらないのかな。そして、形は変われどコーチビルダーは柔軟に企業体型を変えながら技術を磨いて行ったんですね。

K: 文明の進歩と歴史の中で、優れたコーチビルダーはレーシングカービルダーだったり、また幾つかは自動車メーカーへと変化していきます。
 
実はジャガーも元々はサイドカーの製造に端を発したコーチビルダーの一つです。優れた架装技術は後に自動車の美意識や、速さを求めるための意匠へと繋がり、ジャガーは大きな評価を得て、自動車製造会社としても、レースのワークスチームとしても大きな成功を収めました。しかし工場の生産規模を広げるためにブラウンズレーンへ移転したわずか5年後、ル・マンでの事故と大火災が重なり思わぬブレーキとなってしまった。

S: ジャガーもかつてはコーチビルダーだったんですね。工場を移転してまもなくの大火事はきっと、とてつもないダメージだったんでしょう。

K: その火災の後に、レースから完全に撤退していたジャガーでしたが、エンジンやギアボックス、コンポーネントなどレーシングで培ったDタイプの製造情報を外部に開示することにしました。当時まだ無名であった小さなレーシングカービルダーがジャガー車の生産に参画しました。それが、ブライアン・リスター率いる「LISTER CARS」 彼らはジャガーとのプロジェクトの中で最も大きな成功を収めたと言われています。
 
S: なるほど、「リスター」というのはその人の名前だったんですね。

 

ジャガーD-Typeのスピリットを継承した、
ブライアン・リスターとアーチー・スコット・ブラウン。
無名だった彼等はジャガーの歴史に
伝説を残すこととなる。
 
Lister Bristol with
Archie Scott Brown and Brian Lister
1954   Via National Motor Museum
©️Alamy



【連載企画】 GT Colour Lab™️
          次回をお楽しみに


Cover Photo: Gado Images / ©️Alamy